岡田武史の家族構成|妻・八重子との結婚、息子・娘、孫・初孫、父親と実家

眼鏡をかけ、紺色のジャケットを着て笑う男性の上半身

元サッカー日本代表監督の岡田武史さん(1956年8月25日生まれ、70歳)には、2歳年上の妻・八重子さんと、2男1女の3人の子供がいます。八重子さんとは早稲田大学4年のときに学生結婚しました。孫がいることは本人が明かしており、初孫については悲しい報道もあります。父親の正雄さんは産婦人科医で、祖父の代から医者が続く家系です。

この記事では、2025年10月に日本経済新聞で連載された本人の「私の履歴書」、雑誌の対談、講演録、公式発表などをもとに、家族それぞれについて確認できる事実を整理しました。子供や孫は一般の方のため、名前や職業など公表されていない情報には踏み込みません。

目次

岡田武史の家族構成【一覧】

本人の発言や報道で確認できる範囲で、岡田さんの家族をまとめると次のとおりです。

続柄名前確認できること
本人岡田武史1956年8月25日、大阪市生まれ。今治.夢スポーツ代表取締役会長、日本サッカー協会副会長、FC今治高校里山校の学園長
妻八重子さん2歳年上。早稲田大学4年で学生結婚
子供公表されていない2男1女の3人。本人も「3人の子ども」がいると発言
孫公表されていない2022年に本人が孫の存在に言及。初孫は亡くなったと報じられている
父岡田正雄さん産婦人科医。父方の祖父も産科医
姉公表されていない1人。岡田さんは姉との2人きょうだい

子供や孫の名前を載せているサイトもありますが、本人や所属先が公表したものは見当たりません。出典を確認できない名前は、この記事では扱っていません。

岡田彰布さんとは親戚ではない

同じ大阪出身で姓も同じ、元阪神タイガース監督の岡田彰布さんと親族だと思われることがありますが、親戚関係を示す情報はありません。2人は早稲田大学の同学年です。武史さんのほうが1歳上ですが、1浪したため学年がそろいました。在学中は同じ時期にサッカー部と野球部の主将を務め、2009年に雑誌「Sports Graphic Number」の企画で対談して以降、交友が続いています。

今治と東京を行き来する現在

岡田さんは2014年11月にFC今治のオーナーとなって以降、愛媛県今治市を拠点に、東京などとの間を行き来しながら活動しています。それ以前は1995年ごろから神奈川県逗子市に住み、2010年には逗子市民栄誉賞を受けました。八重子さんら家族の現在の暮らしぶりは公表されていません。

岡田武史の妻・八重子さんとの出会いと学生結婚

出会いは原宿のサッカーショップ

妻の八重子さんは、岡田さんより2歳年上です。ネット上では「知人の紹介で知り合った」と書かれることが多いのですが、本人の説明は少し違います。

日本経済新聞「私の履歴書」第8回(学生結婚)によると、早稲田大学の学生だった岡田さんは、シューズや練習着を東京・原宿のサッカーショップ「KAMO」で買っていました。そこでアルバイトをしていたのが八重子さんです。店に通ううちにあいさつを交わすようになり、交際に発展しました。

八重子さんはもともと日産自動車本社の厚生課に勤め、野球部監督だった倍賞明さん(俳優・倍賞千恵子さんの弟)の手伝いもしていました。同じ課の斜め前の席には、日産サッカー部を率いていた加茂周さんが座っていたそうです。加茂さんは1997年、W杯予選の途中で日本代表監督を更迭され、後を継いだのがコーチの岡田さんでした。妻の元職場に、のちの前任監督がいたことになります。

大学4年で結婚、妻の実家は当初反対

2人が結婚したのは、岡田さんが大学4年のときです。1980年春の卒業と古河電気工業への入社を控えた時期の学生結婚でした。同じ回の連載によると、八重子さんの実家は当初、この結婚に反対していたといいます。

結婚の時期を「1980年2月」とする過去の記事もありますが、本人の連載で確認できるのは「大学4年で結婚」というところまでです。

新婚時代の暮らしは楽ではありませんでした。古河電工の社員として働きながら、サッカー部と日本代表でプレーしていた当時、協会にはお金がなく、代表に選ばれると消費者金融から借金をして参加していたと岡田さん自身がインタビューで語っています。

脅迫が続いた代表監督時代と八重子さん

八重子さんの負担が一気に増したのは、1997年に岡田さんが日本代表監督に就いてからです。

週刊文春の阿川佐和子さんとの対談(2026年8月6日号)で、岡田さんは当時をこう振り返っています。監督になって有名になるとは思っておらず、電話帳に自宅の番号と住所を載せたままだったため、脅迫状や脅迫電話が止まらなかった。自宅前にはパトカーが24時間止まり、子供たちの送り迎えは八重子さんが毎日担っていたそうです。

翌1998年のフランスW杯は3戦全敗に終わり、岡田さんは激しい批判を浴びました。2007年末に再び代表監督に就き、2010年の南アフリカW杯でベスト16に進むまで、重圧は2度にわたって家庭にも及んでいます。

2006年に横浜F・マリノスの監督を辞めてから代表監督に戻るまでの時期については、「女性自身」(2010年6月22日)が、再起を後押しした八重子さんの叱咤激励を伝えています。

2025年10月の連載最終回で、岡田さんは監督という仕事を選んだために家族に迷惑をかけたと書き、気苦労の絶えなかった八重子さんへの感謝をつづりました。

岡田武史の息子・娘は2男1女

子供たちの名前や職業は公表されていない

岡田さんの子供は、息子2人と娘1人の3人です。2022年1月にFC今治が開いた座談会でも、岡田さんは「僕には3人の子ども、そして孫もいます」と話しています(FC今治公式noteのイベントレポート)。

3人とも表舞台で活動している様子はなく、名前や職業、学歴は公表されていません。息子が父と同じサッカー界にいるといった情報も、信頼できる資料では確認できませんでした。

父の仕事に振り回された子供時代

子供たちが幼いころから、一家の暮らしは岡田さんの仕事と切り離せませんでした。1992年からのドイツへのコーチ留学は家族を伴うもので、その経緯は「私の履歴書」第11回で触れられています。

1997年に代表監督に就いてからは、前述のとおり自宅前にパトカーが常駐し、子供たちは母親の車で送り迎えされる生活になりました。フランスW杯の後も騒ぎは収まらず、連載第20回には、家族で東京ディズニーランドに出かけると人だかりができ、子供に「もうお父さんとは二度とランドに行かない」と怒られたという話が出てきます。落ち着いて静かに仕事がしたいと、1999年に選んだ再出発の地がコンサドーレ札幌でした。

「南アフリカの父へ」は娘の手紙だったのか

娘さんの話題でよく取り上げられるのが、2010年6月20日の朝日新聞と日本経済新聞に載った「南アフリカの父へ」という文章です。この日は父の日で、W杯オランダ戦の当日でした。大会直前の親善試合で4連敗し、ネットの調査で支持率16%と報じられるほど、岡田さんへの批判が強まっていた時期です。重圧と闘う父を気づかい、家族で応援していると伝える内容で、「娘より」と結ばれています。

多くのサイトが「娘からの手紙」として紹介していますが、これは新聞広告です。東京コピーライターズクラブのコピー検索では、広告主は朝日新聞社と日本経済新聞社、媒体は新聞と記録され、コピーライター2人の名前がクレジットされています。紙面には「仕事でがんばるすべてのお父さんへ」という一文も添えられています。この広告はTCC賞のファイナリストとなり、2011年のコピー年鑑にも収録されました。

娘さん本人が書いたのか、取材をもとに広告として構成したのかは明らかにされていません。父の日の企業広告として作られた文章であり、娘の直筆の手紙だと言い切れる資料は見つかりませんでした。

岡田武史の孫と初孫

初孫を亡くしたと報じられている

岡田さんの初孫については、悲しい報道があります。南アフリカW杯の期間中だった2010年6月22日、「女性自身」が、岡田さんは初孫を亡くしていたと報じました。記事は、横浜F・マリノスの監督を辞めてから代表監督に戻るまでの岡田さんの歩みと、この出来事を重ねて伝えています。

岡田さんがマリノスの監督を辞任したのは2006年8月です。2009年12月に早稲田大学で行った講演の記録(ITmedia)で、岡田さんはこの辞任について、表向きは「家族を亡くして、とても戦える状態ではない」という理由だったと話しています。そのうえで、本当は指導者としての限界を感じていたのではないかと、自分の内面を振り返りました。

講演で岡田さんは、亡くなった家族が誰なのかを明かしていません。初孫の件について本人が詳しく語った記録も見当たらないため、時期や経緯はこれ以上踏み込まずにおきます。

2022年に「孫もいます」と発言

現在の孫については、先に触れた2022年1月の座談会(オンライン開催、参加者84人)で、岡田さんが3人の子供とあわせて孫がいることを話しています。人数や年齢は明かしていません。

発言が出たのは、子供や孫の世代にどんな社会を残すのかを考えている、という話の流れの中でした。岡田さんが会長を務める今治.夢スポーツは「次世代のため、物の豊かさより心の豊かさを大切にする社会創りに貢献する」を企業理念に掲げており、家族への思いと仕事の動機が地続きになっていることがうかがえます。

岡田武史の父親・正雄さんと医者一家の実家

本籍は香川県小豆島、祖父の代から医者

岡田さんは大阪生まれの大阪育ちですが、本籍は今も香川県の小豆島にあります。「私の履歴書」第2回のタイトルは「医者一家」。子供のころ小豆島の実家に帰ると、灯籠が並ぶような墓があり、蔵には槍などの武具がしまわれていたそうです。父の正雄さんによれば、岡田家は源氏に追われた平氏の落人の家系だと伝えられてきました。出生地を香川県高松市とする資料もありますが、本人は連載で「大阪生まれ」と書いています。

父方の祖父は産科医で、3人の息子を全員医者にしました。小豆島を出た祖父は、長野県諏訪市の赤十字病院にも勤めています。父の正雄さんも医師となり、産婦人科医として働きました。岡田さんには姉が1人いて、2人きょうだいです。

口出ししない父が勧めた天王寺高校

正雄さんは、息子のやることにあまり口を挟まない父親だったようです。その父が珍しく受験を勧めたのが、自身の母校でもある大阪府立天王寺高校でした。中学3年の夏ごろから家庭教師について受験勉強を始め、合格した岡田さんは、連載第5回で「初めて親孝行らしいことができた」と振り返っています。

その少し前、中学生の岡田さんは「ドイツに行ってプロになる」と言い出して両親を困らせていました。両親から相談を受けた産経新聞運動部長の賀川浩さんに諭され、渡独は思いとどまっています。医者の家に生まれながら、進んだのはサッカーの道でした。天王寺高校では3年でユース代表に選ばれ、1年の浪人を経て早稲田大学政治経済学部へ進みます。

年表で見る岡田武史と家族の出来事

家族に関わる出来事を、岡田さんの経歴と並べると次のようになります。

年出来事
1956年8月25日、大阪市で生まれる。父は産婦人科医の正雄さん
1979〜80年早稲田大学4年で八重子さんと学生結婚。1980年に古河電気工業へ入社
1992年家族を伴ってドイツへコーチ留学
1997年日本代表監督に就任。脅迫が相次ぎ、自宅前にパトカーが24時間待機
1998年フランスW杯で3戦全敗。外出先でも騒がれる生活に
1999年静かな環境を求め、コンサドーレ札幌の監督に就任
2006年横浜F・マリノス監督を辞任。表向きの理由は家族を亡くしたこと
2007年12月、再び日本代表監督に就任
2010年南アフリカW杯でベスト16。父の日に新聞広告「南アフリカの父へ」が掲載。7月に逗子市民栄誉賞
2014年愛媛県のFC今治のオーナーに就任
2022年座談会で、3人の子供と孫がいることに触れる
2025年日経「私の履歴書」を連載。最終回で妻への感謝をつづる
2026年3月、日本サッカー協会副会長に再任

監督としての節目と家族の出来事が重なっている年が多く、代表監督を2度務めた期間は、家族にとっても落ち着かない時期だったことが年表からも分かります。

まとめ:岡田武史の家族構成|妻・八重子との結婚、息子・娘、孫・初孫、父親と実家

  • 岡田武史さんの妻は2歳年上の八重子さん。原宿のサッカーショップで知り合い、早稲田大学4年で学生結婚した。八重子さんの実家は当初反対していた
  • 子供は2男1女の3人。いずれも一般の方で、名前や職業は公表されていない
  • 孫がいることは本人が2022年に明かしている。初孫については、亡くなっていたと2010年に週刊誌が報じた
  • 父の正雄さんは産婦人科医。本籍は香川県小豆島で、祖父の代から続く医者の家系
  • 2010年の「南アフリカの父へ」は朝日新聞社と日本経済新聞社の新聞広告で、娘の直筆の手紙と確認できる資料はない

1997年の代表監督就任後は、自宅への脅迫や激しい批判に家族も巻き込まれました。それでも八重子さんは子供たちの送り迎えを続け、岡田さんは70歳を前に書いた連載で、その妻に感謝を伝えています。現在の岡田さんは、FC今治の運営、FC今治高校里山校の学園長、日本サッカー協会副会長の仕事を並行して続けています。

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