元プロ野球選手で野球解説者の張本勲さんは、2026年9月9日に東京都内の病院で亡くなりました。86歳でした。日本プロ野球名球会の発表を伝えた張本勲さんの訃報記事でも、通算3085安打の功績とともに伝えられています。
家族については、妻と娘2人がいたことが本人の発言や報道から分かります。一方で、妻の名前や結婚年月日、孫の有無は公表されていません。
両親は現在の韓国・慶尚南道の出身で、張本さんは広島で生まれた4人兄弟の末っ子です。長く韓国籍でしたが、2024年末の取材で、数年前に日本国籍へ変えていたと明かしました。
ここでは、妻・子供・孫について伝えられた話と、父母・兄姉の歩み、国籍と帰化の時期を、確認できた報道をもとに整理します。
張本勲の妻はどんな人?家族を支えた妻のエピソード
張本勲さんの妻は一般の方で、名前や年齢、職業、出身地は公表されていません。それでも、現役時代の家庭や、義母とのやり取りを伝える話は残っています。
妻と幼い娘たちには見せなかった夜中の素振り
張本さんの被爆体験と家族の記憶を取り上げたTBS NEWS DIGの特集などでは、現役時代の家庭の様子も紹介されています。張本さんは当時、妻や幼い娘たちと寝室を分けていました。
打てなかった日は、翌日に対戦する投手のことが寝床に入っても頭から離れません。夜中に起きてバットを振ることもあり、その姿で娘を驚かせないよう、別の部屋で練習を続けていたそうです。
母は「監督にさせるな」と妻に伝えていた
引退後、張本さんには監督就任の打診が何度もありましたが、実現しませんでした。張本さんの母が妻に託した言葉を紹介したNumber Webの記事によると、母は張本さんの妻に「絶対に監督をさせてはいけない」と告げていました。
何事にものめり込む息子の体を案じた言葉で、張本さん自身も後年、この思いを重く受け止めていたと語っています。
なお、ネット上には妻が先に亡くなったとする記事もあります。ただし、今回確認した報道や本人の発言に、それを裏付ける記述はありませんでした。
張本勲の結婚はいつ?結婚時期と馴れ初めで分かること
張本勲さんの結婚年月日は公表されておらず、今回確認した資料でも特定できませんでした。妻と出会った経緯を、本人が詳しく語った記録も見当たりません。
著書『張本勲 もう一つの人生 被爆者として、人として』の記述を引用した紹介記事では、プロ野球選手になってから結婚し、家庭を持ったと本人が振り返っています。原著を直接照合できていないため、結婚時期は「プロ入り後」という範囲にとどめます。
1969年に韓国誌が伝えた「母国での縁談」
1969年の韓国週刊誌『サンデーソウル』の張本勲さんの縁談記事(ソウル新聞の再掲・韓国語)には、当時29歳だった張本さんの結婚話が載っています。同年12月、張本さんは母とともに韓国を訪れ、1967年に知人の紹介で知り合った韓国人女性との縁談を進めると報じられました。
ただし、同誌の時点でも挙式日は決まっていません。本人は結婚は自分一人では決められないとして明言を避け、最終的な判断は母に委ねると伝えられています。この女性がのちの妻かどうかを確かめられる報道は、今回は見つかりませんでした。
張本勲の家族と子供は何人?家族構成を一覧で整理

張本勲さんの子供は2人で、いずれも娘とみられます。著書を引用した紹介記事に子供が2人とあり、本人もテレビで「下の娘」と話しているためです。
公に確認できる家族構成は次のとおりです。
| 続柄 | 確認できた内容 | 主な根拠 |
|---|---|---|
| 妻 | 一般の方。氏名・職業は非公表 | TBS NEWS DIG、Number Web |
| 子供 | 2人。娘2人とみられる | 著書の引用記事、J-CASTニュース |
| 息子 | 存在を裏付ける資料なし | ― |
| 孫・孫娘 | 有無・人数とも公表なし | ― |
| 父 | 張本さんが幼い頃に死去 | 集英社Sportiva |
| 母 | 順分さん。戦後はホルモン焼き店で子を育てた | ANN、集英社Sportiva |
| きょうだい | 兄1人・姉2人。本人は末っ子 | ANN |
子供の氏名や生年月日、仕事まで分かる資料はありません。「娘がいる」ことと「子供のプロフィールが分かっている」ことは別だと考えてください。
張本勲の娘と息子

娘について語った2014年のサンデーモーニング
2014年3月16日の『サンデーモーニング』では、父を亡くした直後に試合へ臨んだレスリングの吉田沙保里さんが話題になりました。張本勲さんの娘に関する発言を報じたJ-CASTニュースの記事によると、張本さんは吉田さんの親孝行をたたえたうえで、「下の娘は親不孝」と自分の家族に触れています。
ただし同じ場面で、娘の人柄そのものは褒めていました。娘が具体的に何をしたのかは記事に書かれておらず、この発言だけで親子の不仲や絶縁といった話に広げることはできません。
息子がいるという資料は見つからない
今回確認した本人の発言や報道では、息子の存在を示す記述は見つかりませんでした。卓球の張本智和選手を息子や孫とする誤解もありますが、次のとおり両親は別人です。
張本勲の孫・孫娘は?

張本勲さんに孫や孫娘がいるのか、何人いるのかは公表されていません。娘が成人しているという事情だけで、孫の存在を決めることはできません。
張本智和と張本美和は兄妹で、両親は元卓球選手
姓が同じため、卓球の張本智和選手や張本美和選手を張本勲さんの孫と思う人もいますが、血縁を示す資料はありません。張本智和選手の父・宇さんの来日を伝えたNumber Webの記事によると、中国出身の元卓球選手である宇さんは1998年に仙台のジュニアクラブのコーチとして来日し、その後、凌さんと結婚しました。
妹の美和選手についても、張本美和選手のプロフィールを掲載したSPREADの選手ページに、両親が元卓球選手で兄が智和選手だと記されています。張本勲さんの家族とは別の一家です。
張本勲の両親の出身と国籍は?

張本勲さんの両親は、現在の韓国南東部にあたる慶尚南道の出身です。元木昌彦氏が張本勲さんの生涯をたどったData・Maxの記事でも、両親は慶尚南道の出身と紹介されています。前述の1969年の韓国誌は、一家の故郷を慶尚南道の昌寧(チャンニョン)と伝えています。
両親が日本へ渡った後、張本さんは1940年6月19日に広島市で生まれました。両親の故郷と本人の出生地は異なります。
両親の出身と本人の国籍は分けて考える
張本さんは在日韓国人2世です。時事通信が配信した張本勲さんの訃報(nippon.com)も、早くからそのことを公言し、韓国球界の発展にも尽くしたと伝えています。
ただし、両親が渡日した当時の朝鮮半島は日本の統治下にありました。両親は「現在の韓国にあたる地域の出身」、本人は「広島生まれで、長く韓国籍だった後に日本国籍を取得」と分けると混同を避けられます。
張本勲の父親は?幼い頃に亡くなった父
張本勲さんの父は、張本さんが物心つく前に亡くなっています。張本勲さんが生涯の友・江藤慎一さんを語った集英社Sportivaのインタビューでも、父を早くに亡くし、貧しい暮らしの中で育ったことが紹介されています。
1969年の韓国誌は、張本さんが4歳の頃に父が亡くなったと記しており、1945年の原爆投下より前だったことになります。父の名前は、本人への取材記事で張相禎さんと紹介されています。
ネット上には死因を詳しく説明した記事もありますが、今回確認した資料からは裏付けられませんでした。確かなのは、父を早くに失い、その後は母と兄が一家を支えたという点です。
張本勲の母・朴順分さん

母の名前は順分さんで、韓国の報道では姓を朴と伝えています。夫を亡くした後は、女手ひとつで子供たちを育てました。
原爆が落ちたとき母が身を覆って守った
1945年8月6日、5歳だった張本さんは爆心地から約2キロの自宅付近で被爆しました。張本勲さんの被爆証言を振り返ったANNの追悼記事によると、気が付いたとき、母が自分に覆いかぶさっていたといいます。
母はガラスの破片が背中に刺さる大けがを負いました。家は倒壊し、一家は橋の下に身を寄せたこともあったと伝えられています。
戦後はホルモン焼きの店で3人の子を育てた
前述のSportivaのインタビューによると、日本語が不自由だった母は、戦後にトタン屋根の家でホルモン焼きの店を始めました。少しでも安い肉を求めて毎日歩いて仕入れに通い、女手ひとつで3人の子を育て上げています。
3000安打を達成した日は母が球場で見届けた
1980年5月28日、張本さんは川崎球場の阪急戦で、日本プロ野球初の通算3000安打を達成しました。前述のANNの記事は、その瞬間を母が球場で見届けたと伝えています。父を早くに亡くした張本さんにとって、母に楽をさせたいという思いを形にした場面です。
張本勲の兄と兄弟は何人?兄1人・姉2人の4人きょうだい
張本勲さんは、兄1人と姉2人がいる4人兄弟の末っ子です。「兄弟は何人」という疑問には、本人を含めて4人、本人以外は3人と答えられます。
兄はタクシー運転手として弟の野球を支えた
兄の名前は世烈さんと紹介されています(1969年の韓国誌では「世治」と表記)。張本さんが大阪の浪華商業高校へ進む際、兄はタクシー運転手として働きながら、毎月1万円を仕送りしました。兄の月給の額は記事によって異なりますが、毎月1万円を送った点は共通しています。
前述のData・Maxの記事によると、母は当初、大阪行きを許しませんでした。それでも張本さんの決意は固く、最後は母と兄が許し、兄が大阪まで付き添ったという姉の証言が紹介されています。
長姉は原爆で亡くなり、すぐ上の姉・貞子さんは生き延びた
6歳上の長姉は、原爆が落ちた日に勤労奉仕で外に出ていて被爆し、全身にやけどを負って亡くなりました。本人への取材記事では、名前は点子さんと紹介されています。
すぐ上の姉・貞子さんは、張本さんとともに母にかばわれて助かりました。被爆後の姉弟の様子を紹介した日刊ゲンダイの記事によると、二人はその夜を太田川の橋の下で過ごしています。戦後は母、兄、貞子さん、張本さんの4人で暮らしを立て直しました。
張本勲の国籍は日本 長く韓国籍を保った理由
張本勲さんの国籍は、亡くなった時点で日本です。ただし現役時代から引退後の長い期間は韓国籍で、韓国名は張勲(チャン・フン)です。
プロ入り時に帰化しなかった背景には母の言葉
1959年の東映入団時、当時の外国人選手枠の関係で、張本さんは帰化を勧められました。前述のSportivaのインタビューによると、母は「祖国を捨てるくらいなら野球をやめろ」と反対しています。
この言葉に心を動かされた東映の大川博オーナーが動き、日本の学校を卒業した選手を外国人扱いしないよう協約が改められるきっかけになったと紹介されています。
2024年末に日本国籍だと初めて明かした
張本勲さんの日本国籍取得を伝えた韓国・ニューシスの記事(韓国語)によると、張本さんは2024年12月29日の産経新聞のインタビューで、数年前に国籍を変えて今は日本国籍だと初めて明かしました。
帰化の背景にも触れた韓国スポーツ紙・日刊スポーツ(イルガンスポーツ)の記事では、韓国のある政権が在日韓国人を軽んじたと感じたことを理由に挙げたと伝えています。一方で、両親の血を受け継ぐ在日としての誇りは持ち続けているとも語っていました。
張本勲の帰化はいつ?公表は2024年末、取得年月日は不明

張本勲さんが日本国籍を取得した正確な年月日は、公表されていません。本人は2024年末の取材時点で「数年前」に変えたと説明しており、2024年末に「明かした」とはいえても、2024年に帰化したとは断定できません。
韓国メディアの一部には2024年に帰化したと書いた記事もありますが、本人の説明とは食い違います。時期ごとに整理すると次のとおりです。
| 時点 | 国籍の状況 |
|---|---|
| 1959年の東映入団時 | 韓国籍。帰化を勧められたが母が反対 |
| 現役時代〜引退後 | 韓国籍のまま、在日韓国人2世と公言 |
| 2024年12月の産経新聞インタビュー | 数年前に変更し、日本国籍と説明 |
| 実際の帰化年月日 | 公表なし |
| 2026年9月9日の死去時 | 日本国籍 |
現役時代に帰化しなかったことと、晩年に日本国籍を取得したことは矛盾しません。どの時点の話かを分けて読むことが大切です。
まとめ 張本勲の妻と子供、両親の出身と帰化の時期
- 張本勲さんは2026年9月9日に86歳で亡くなった
- 妻は一般の方で、氏名や結婚年月日は非公表。結婚はプロ入り後と本人が振り返っている
- 子供は娘2人とみられ、息子や孫、孫娘を確認できる資料はない
- 卓球の張本智和・美和兄妹は両親が元卓球選手の別の一家で、血縁を示す資料はない
- 両親は現在の韓国・慶尚南道の出身で、本人は広島生まれ。父は幼い頃に亡くなり、母・順分さんがホルモン焼きの店で子を育てた
- きょうだいは兄1人・姉2人の4人で、長姉は原爆で亡くなった
- 国籍は長く韓国籍。2024年末に「数年前に日本国籍へ変えた」と明かしたが、正確な帰化年月日は不明
家族の人数や国籍の変化は、どの時点の話かを確かめながら読むと混同を避けられます。
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