王貞治の再婚相手は料亭?どこ?名前や年齢?前妻・王恭子の馴れ初め、ウィキペディアや国籍

ジャイアンツのユニフォーム姿で片足を上げ、バットを構える打者

王貞治さん(福岡ソフトバンクホークス球団会長)は2018年5月30日、10年ほど生活を共にしてきた一般女性と入籍しました。当時の年齢は王さんが78歳、お相手が60歳です。18歳下の妻は福岡・中洲にあった料亭の家の出身で、実家の店で女将を務めていたと週刊誌各誌が報じています。名前と顔写真は公表されていません。

前妻の王恭子さんは2001年12月11日、胃がんのため57歳で亡くなりました。翌年には墓から遺骨が盗まれ、犯人はいまも捕まっていません。

この記事では、球団の発表や新聞報道で確かめられる事実を軸に、週刊誌の情報は媒体名を示して区別しながら、2人の妻について整理します。

目次

王貞治の妻は2人?前妻・恭子と再婚相手を比較

王貞治の妻は2人?前妻・恭子と再婚相手を比較

王さんの結婚歴は2回です。1966年に恭子さんと結婚し、死別から16年半後に再婚しました。2人の違いを表にまとめます。

項目前妻・王恭子さん再婚相手
名前王恭子(おう・きょうこ)非公表(一般女性)
出身東京都福岡(実家は中洲の料亭と報道)
王さんとの年齢差約4歳下18歳下
出会い王さんのプロ1年目に知り合う実家の料亭に王さんが通っていた縁と報道
結婚した年1966年2018年
結婚時の王さんの年齢26歳78歳
結婚の公表2人そろって婚約会見球団を通じた書面で報告
現在2001年に57歳で死去2026年時点でも夫婦として報道

再婚相手については、本人や球団が公表した情報がごくわずかです。表の多くは週刊誌の取材によるもので、以下では確認済みの事実と報道ベースの情報を分けて説明します。

王貞治の再婚相手はどんな人?名前・年齢・写真?料亭はどこ?

王貞治の再婚相手はどんな人?名前・年齢・写真?料亭はどこ?

2018年5月30日に入籍、球団を通じて報告

再婚が公になったのは2018年6月1日です。ソフトバンクが、王貞治球団取締役会長の入籍を発表しました。婚姻届を出したのは、78歳の誕生日から10日後にあたる5月30日でした。

王さんは書面で「10年来生活を共にしておりました一般女性と入籍しました」と報告しています。これからも2人で充実した日々を送りたいとつづり、シーズン中に私的な報告をすることになった点を詫びる言葉も添えました。コメント全文は王会長の入籍を伝えたBASEBALL KINGの記事で読めます。台湾の中央通訊社も同じ日にこのニュースを伝えました。

発表で明かされたのは、相手が一般の女性であることと、約10年一緒に暮らしてきたことの2点だけでした。入籍に踏み切った理由について、王さんは週刊現代の直撃取材に、長く一緒にいたので籍を入れて人生をまっとうしようと考えた、という趣旨を明るく語っています。

再婚相手の名前・年齢・写真は公表されている?

再婚相手の名前は公表されていません。球団の発表も王さんのコメントも一般女性とするのみで、週刊誌もイニシャルや仮名で報じています。職業や経歴について、本人側からの説明もありません。

再婚相手の年齢は入籍時に60歳と報じられ、王さんとは18歳離れています。ここから逆算すると、2026年10月時点で68〜69歳です。正確な生年月日は明らかになっていません。

公式に公開された写真もありません。2026年6月発売の週刊文春は夫妻の2ショット写真を掲載したと告知していますが、本人側が公開したものではありません。ネット上で「再婚相手」として出回る画像には真偽を確かめられないものもあるため、本人と決めつけないよう注意が必要です。

実家は福岡・中洲の老舗料亭 料亭はどこ?

再婚相手の実家は、福岡市の中洲で営業していた料亭です。中洲は那珂川と博多川に挟まれた、福岡を代表する繁華街として知られています。

週刊現代の報道によると、彼女は実家の店を手伝っていました。王さんは監督としてホークスを率いていた頃からの客で、店での縁が出会いにつながったとみる担当記者の声も紹介されています。2026年の週刊文春も、彼女を料亭の元女将として伝えました。

週刊女性は2018年にこの料亭を取り上げています。同誌によると、店は築150年を超える日本家屋を使った老舗で、2014年7月末に閉店しました。建物は取り壊され、跡地には別のビルが建っています。

店名は主要な報道でも伏せられています。すでに営業していないため、「料亭はどこか」を調べても、現在訪ねられる店は残っていません。

出会いから入籍まで約10年かかった経緯

2人が親しくなったのは、王さんにつらい出来事が続いた時期でした。2001年に恭子さんを亡くし、翌年には遺骨の盗難に遭いました。2006年には第1回WBCで日本代表を優勝に導いた一方、同じ年に胃がんが見つかり、胃を全摘出しています。週刊現代は、この闘病の際に再婚相手が次女の理恵さんとともに看病していたと報じました。

2008年に監督を退任すると、王さんは福岡市内で彼女と暮らし始めたとされます。週刊女性によれば、球団が用意した住まいではなく、王さんが自ら購入した住まいでの新生活でした。周囲には彼女を「ウチの家内」と紹介していたそうで、球団関係者の間ではすでに会長夫人として受け止められていたと週刊現代は書いています。球団発表で示された約10年という期間とも重なります。

週刊女性は、2011年の終わりごろには彼女の実家から、早く籍を入れてほしいという声が上がっていたと伝えています。2012年に同誌の取材を受けた際、彼女は王さんを「主人」と呼び、実家の家族とも一緒に食事をするなど関係は円満だと話しています。

それでも入籍までは、さらに6年ほどかかりました。週刊現代は、恭子さんの死から10年ほどたったころには王さんも再婚を真剣に考えていた、という財界関係者の見方を紹介しています。そのうえで、亡き妻への思いや娘たちの受け止め方、双方の家庭の事情が重なり、入籍までに時間を要したと伝えています。

王貞治の再婚に娘は反対した?

王貞治の再婚に娘は反対した?

王さんと恭子さんの間には3人の娘がいます。日本野菜ソムリエ協会の理事も務めるタレントの王理恵さんが次女で、長女と三女は一般の方のため名前などは公表されていません。

「娘が再婚に反対した」という話は、入籍直後の週刊誌報道が出どころです。週刊現代は、3人の娘が再婚に前向きではなかったとする関係者の話を掲載しました。恭子さんの死後、王さんが娘たちに再婚はしないと伝えていたとも書いています。母への思いが強い理恵さんは入籍を望んでいなかった、という知人の証言を載せる一方で、娘によって受け止め方に温度差があったとも伝えています。同誌によると、福岡では再婚相手と、上京した際は目黒区の自宅で理恵さんと過ごす生活だったといいます。

ただ、娘たち自身が公の場で反対を表明した記録は見当たりません。週刊女性は、2009年に王さんが腸閉塞と胆のうの手術を受けた際、理恵さんと再婚相手が交代で付き添っていたと報じています。

理恵さんは2025年6月、王さんが理事長を務める世界少年野球推進財団の評議員に就きました。就任会見では、父の後を継ぐような大それた考えはないとしながら、子どもたちと野球をする父の姿を近くで見てきたと語り、大会を長く続けてほしいと話しています。「反対」の報道は2018年当時の関係者の証言に基づくもので、娘たちがいまどう考えているかは分かっていません。

王貞治の妻の現在?園遊会と近況

王貞治の妻の現在?園遊会と近況

2026年春の園遊会に招かれた王さん

王さんは2026年4月17日、天皇皇后両陛下が赤坂御苑で開いた春の園遊会に招かれました。園遊会は例年春と秋に開かれる行事で、この回は約1750人が招かれ、各界の功労者ら約1400人が出席しました。

日本経済新聞によると、招待客は各界の功労者や議員、自治体関係者で、配偶者もあわせて招かれています。ミラノ・コルティナ冬季五輪の金メダリストやノーベル化学賞の北川進さん、声優の野沢雅子さんらと並び、ソフトバンクの王球団会長も招待者に含まれていました。王さんは1977年に第1号の国民栄誉賞を受け、2010年には文化功労者にも選ばれています。

園遊会は配偶者も招待の対象です。ただ、当日の夫人の様子や名前を伝えた主要メディアの報道は確認できませんでした。

週刊文春が報じた夫妻の近況

直近の夫妻の様子を伝えたのは、週刊文春(2026年6月11日号)です。同誌は、王さんが再婚相手と共同で2つの会社を設立していたことを伝え、一連の動きを「美しき終活」と表現しました。恭子さんの墓前での2人の様子にも触れています。

王さんは2026年10月時点で86歳です。球団会長を務めるかたわら、長嶋茂雄さんが亡くなる10日ほど前の2025年5月には、王さんや大谷翔平選手を超えるスターが生まれ続ける未来を掲げた財団「球心会」を設立し、2026年9月には公益財団法人への移行を発表しました。2026年も2月に台湾の台北ドームを訪れ、9月には本拠地のみずほPayPayドームで報道陣の取材に応じるなど、公の場に立ち続けています。

王貞治の前妻・王恭子さんの経歴と馴れ初めや国籍は?

王貞治の前妻・王恭子さんの経歴と馴れ初め

王恭子さんのプロフィール

恭子さんは一般の方で、まとまった公式プロフィールはありません。執筆時点で単独のウィキペディア記事も見当たらず、王貞治さんの項目の家族欄に記載がある程度です。報道で確認できる内容を表にしました。

項目内容
名前王恭子(おう・きょうこ)
旧姓小八重(百科事典サイトなどの記載)
生まれ1943〜1944年(享年57から逆算)
出身東京都
結婚1966年(1月に婚約会見、12月1日に披露宴)
子ども娘3人
死去2001年12月11日、胃がんのため57歳で死去

結婚前の職業や学歴は公表されていません。結婚後は表舞台に出ることがほとんどなく、家庭から王さんを支えたと伝えられています。週刊現代は、恭子さんが夫を野球に専念させることに力を尽くしていたという関係者の話を載せました。

2人が連れ添った35年の間に、王さんは1977年に本塁打の世界記録を塗り替え、巨人の監督としては1987年にリーグ優勝を果たしました。1995年にダイエーの監督に就いてからは福岡へ単身赴任し、家族は東京に残る生活が続きます。1999年には、ダイエーで初の日本一を達成しました。

馴れ初めはプロ1年目 練習に通うファンから友人へ

共同通信が配信した訃報は、恭子さんが王さんを応援するファンとして練習に足を運んでいたことが、馴れ初めであり交際のきっかけになったと伝えています。巨人の練習場だった多摩川グラウンドで知り合ったとする記事もあります。

長嶋茂雄さんと王さんの婚約報道を振り返ったNumber Webの記事によると、王さんの自伝『もっと遠くへ』には、2人はプロ1年目の1959年に知り合い、最初は親しい友人の一人だったと記されています。1962年、王さんが初の本塁打王を獲った際、実家の中華料理店で身内だけの祝勝会が開かれ、恭子さんもその場にいました。ただ、報道陣は彼女を「妹のようなもの」と受け止め、ほとんど注目しなかったそうです。記者たちが作った花嫁候補のリストに名前が載ったこともありましたが、家族が結婚の可能性を強く否定したため、候補から外れていたといいます。

ネット上には「雨宿りがきっかけ」という出会いの話も見られますが、新聞報道などの一次情報では確認できませんでした。

婚約会見と披露宴 テレビ出演は番組最高視聴率に

王さんが結婚を意識したのは、長嶋さんの結婚がきっかけだったとされます。長嶋さんの婚約は報道各社のスクープ合戦になり、記者たちは王さんの結婚相手探しにも動きました。ある通信社が、王さんと元アナウンサーの婚約を本人に確かめないまま報じ、誤報に終わったこともあります。こうした騒ぎを見た王さんは、正式に決まるまで沈黙を守り、全社に平等に発表すると決めたといいます。特定の記者だけが得をすれば、ほかの誰かが悔しい思いをする。大勢が喜んでも1人が泣くことはしてはいけない、という父の教えに沿った判断でした。

婚約会見は1966年1月6日、東京のホテルニューオータニで開かれ、2人は大勢のカメラマンに囲まれました。同じ日の夜には、フジテレビの「スター千一夜」に2人そろって出演しています。王さんは1962年から本塁打王を獲り続け、1964年にはシーズン55本塁打を記録するなど、すでに巨人の主砲でした。

披露宴は同年12月1日、同じホテルで開かれました。東京スポーツは約1500人が祝福したと伝えており、会場では長嶋さんが新郎新婦に祝いの言葉をかけています。挙式当日に夫妻が出演した「スター千一夜」は、番組史上最高の45%台の視聴率を記録しました。結婚時、王さんは26歳、恭子さんは22歳前後でした。

王恭子さんの国籍は?

王貞治さんは、浙江省青田県出身の父のもと、東京・墨田区で生まれました。浙江省にルーツを持つ在日華僑の2世で、台湾の出身ではありません。中華人民共和国が成立した1949年より前から日本で暮らしてきた華僑には、1972年の日中国交正常化後も中華民国籍のままの人が少なからずおり、王さんもその一人です。2023年12月には、台湾の中華民国野球協会の辜仲諒理事長が、王さんがいまも中華民国籍であることを現地メディアに語っています。

1977年に創設された国民栄誉賞の第1号受賞者でもあり、台湾の中央通訊社は同じ2023年、外国籍の受賞者は王さんだけだと伝えました。

恭子さんは訃報で「東京都出身」とされています。国籍を明記した公的な資料は見当たりませんが、日本の国籍法では、外国籍の人と結婚しただけで日本国籍を失うことはありません。恭子さんが国籍を変えたという報道もありません。

王貞治の妻・恭子さんの死因は胃がん 57歳での別れ

恭子さんは2001年12月11日午後9時21分、東京都港区の虎の門病院で亡くなりました。死因は胃がんで、57歳でした。

訃報によると、恭子さんは1998年ごろに手術を受けてから療養生活を送っていましたが、この日に容体が急に悪化しました。当時61歳の王さんは、ダイエーの監督として7年目のシーズンを終えたばかりでした。

通夜と葬儀・告別式は目黒区の寺院で営まれ、王さんが喪主を務めています。葬儀の場で、王さんが次女の理恵さんとともに涙をこらえきれずにいる姿は写真にも残されました。

その5年後の2006年には、王さん自身にも胃がんが見つかり、胃の全摘出手術を受けています。

王貞治の妻の遺骨盗難事件 犯人は捕まったのか

王貞治の妻の遺骨盗難事件 犯人は捕まったのか

2002年12月、墓から骨壺ごと盗まれる

恭子さんの遺骨は、東京都目黒区の寺院にある王家の墓に納められました。一周忌から10日ほどたった2002年12月21日、その遺骨が骨壺ごとなくなっているのが見つかります。警視庁は墳墓発掘の疑いで捜査を始めました。

日本一の直後にかかってきた脅迫電話

事件が再び動いたのは翌2003年です。ダイエーが阪神との日本シリーズを制し、10月27日に日本一を決めた後、球団に男の声で、遺骨を返す代わりに現金を払うよう求める電話がかかってきました。要求額は数百万円。男は王監督と直接話すことも求めましたが、球団は取り合いませんでした。

この電話の存在が明らかになったのは同年12月22日です。デイリースポーツの当時の紙面記事によると、王さんは「(妻は)心の中で生きている」と語り、遺骨を盗む意図は理解できないと話しました。盗難の発覚から電話までの10か月あまり、犯人側からの接触はなく、王さんは相手からの連絡を待つしかないとも述べています。警視庁は、電話の主が盗難の犯人なのか、騒ぎに便乗した別人なのかを捜査しました。電話の件が明るみに出る直前の12月6日には、王さんが三回忌の墓参りをしていました。

犯人は未逮捕、遺骨はいまも戻らず

犯人は逮捕されておらず、遺骨も見つかっていません。2026年6月の週刊文春も、遺骨がいまだ戻っていないと伝えました。それでも王さんは、節目ごとに恭子さんの墓参りを続けてきました。

著名人の遺骨が狙われた例としては、1993年に漫画家の長谷川町子さんや、実業家・早坂太吉さんの妻の遺骨が盗まれ、現金を求める脅迫状が届いた事件があります。恭子さんの事件は、発生から20年以上たったいまも解決していません。

まとめ:年表で見る王貞治の結婚と家族

恭子さんと過ごした35年と、再婚に至るまでの流れを年表にまとめました。

年月出来事
1959年巨人に入団、この年に恭子さんと知り合う
1966年1月2人そろって婚約会見
1966年12月ホテルニューオータニで披露宴
1977年9月通算756号の本塁打世界記録、第1号の国民栄誉賞を受賞
1980年現役を引退
1995年ダイエーの監督に就き、福岡へ単身赴任
1998年ごろ恭子さんが手術を受け、療養生活に入る
2001年12月恭子さんが胃がんで死去(57歳)
2002年12月墓から遺骨が盗まれているのが見つかる
2003年10〜12月日本一の後、遺骨と引き換えに現金を求める電話
2006年王さんが胃がんで胃を全摘出
2008〜09年監督退任後、再婚相手と福岡で同居を始めたと報道
2014年7月再婚相手の実家の料亭が閉店(週刊女性)
2018年5月一般女性と入籍(6月1日に球団が発表)
2025年5月財団「球心会」を設立
2026年4月春の園遊会に招かれる
2026年6月週刊文春が夫妻の近況を報道

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